Monday, July 12
7月の徒然 ⑦
さっき、たまごかけごはんを食べました。
わたしが「たまごはん」と呼ぶ、 小さい頃からの大好物。
小さい頃は丼鉢の白ご飯に、溶いた生卵をじゃーという感じで食べていたけど、今は小ぶりのお茶碗に玄米、有機のお醤油に焼き海苔と、ちょっと洗練された(?)食べ方で、相変わらず大好物です。
今日のたまごはん、食べ終わりに近い頃、最後から5か6口目のところで、脳内モルヒネ大放出、「うまーーーーーっ!」の悲鳴を無言で連呼する一口がありました。
おぉ、このままこの耽溺を貪りたい。。。。と、他のことはもう何も考えられないくらいにたまごはんの快楽に浸った瞬間でした。
そして、一食をいただくにあたり、最初から最後までとは言わない、ただこの「うまーーーーーっ!」、「キタぁーーーーーっ!」の一瞬があれば、その一食は素晴らしい食事と言える、なんてことを考えながら、ひとりモグモグしてました。
食べ終わってお茶碗を洗う時、更に、美味しいってなんだろうってことを考えました。
卵と玄米と醤油と海苔だけの食事で、そこまで感動してしまったことが自分でも不思議だったのかもしれません。
わたしがその時に行き着いた考えの終着ポイント、それは、「集中力」という概念でした。
きっと集中して食べたから美味しかったんだって。
moriちゃんとわたし、同じものを食べていても、moriちゃんの方が「美味しい」をよく口にします。
たとえわたしが「これ、あんまりだねぇ」と言うものに対しても、「そう?美味しいと思うけど??」と。
そうすると、わたしはわたしが美味しいと感じられないことが悔しかったり、他の美味しいと思えるものを食べたかったりして、そうして不機嫌になります。
また同時に、美味しいと思えるか、美味しいと思えないかという問題は、目の前にあるものが、本当に美味しいかおいしくないかということ自体が問題なのではない、ということにも気づいているから、余計に不機嫌さが増します。
わたしは、目の前にあるものを口に入れた時、きっと前に食べた似たようなもので、今口に入れたものよりも美味しかったものの味や、自分がそうであってほしいと期待していた味と比較してしてしまうんです。
そして目の前にあるものがそれらに劣る時、「あんまりだな」とか「美味しくない」と思ってしまう。
でもmoriちゃんはと言うと、今目の前にある、その時自分に与えられたものに意識を集中してて、比較という手段でもって美味しさを量ろうとは思っていないようです。
そこで、わたしは敢えて、「じゃぁ、この間のアレとどっちが美味しい?」なんて実に嫌らしい、巧妙な質問をぶつけます。
そしたらmoriちゃん、「あぁ、あれはあれで美味しかったね。でも、これも美味しいよ。」と、そこに含まれたさりげない嫌がらせをものともしない回答。
moriちゃんには、どんな時も、どんなシチュエーションであろうと、今自分の前に与えられたものを尊いと思いながら有り難く享受する術が備わってるんだと思います。
残念ながら、わたしはそういう点においては欲張りで、潔さに欠ける人間です。
そしてその結果、美味しい!をはじめとする幸せな気持ちを感じ損ねているわけで。
今日のたまごはんのあのビビッときた一瞬、わたしがたまごはんに集中していたかどうかと尋ねられると、あやふやな感じですが、でも少なくともわたしはたまごはん以外の美味しいものを想像してはいなかったし、たまごはんを楽しんで食べるぞ!と思ってたまごはんを食べていたし、だとすればたまごはんに集中していたと言っても間違いはないと思います。
パサパサの食パンを食べる時も、モチモチしてないベーグルを食べるときも、フワフワじゃない卵焼きを食べる時も、ふっくらあったかじゃないご飯を食べる時も、集中力さえあれば、きっと美味しく食べれる!と思ったお昼ご飯のひとときでした。
サリュー。
P.S. たまごはんの話で思い出したことがひとつ。
何週間か前、久しぶりにたまごはんを食べた時に、わたしはすっかり食べ方を忘れていて、生卵をそのまま玄米の上に割り落としてしまい、そしてその後、それをどうやって食べてよいのかわからず、しかもそれまでどうやって食べていたのかも思い出せず、玄米の上にのっかた生卵を目の前にしばらく考えをめぐらさなければならない時間がありました。
集中力以前の、他の力が問われるひとときでした。
